SHINMOJI KININARINYO新門司キニナリーニョ

新門司キニナリーニョ 第4回
河辺駿太郎 選手

増本浩平監督に「かなり苦労してきたようだから、話を聞くと面白いと思いますよ」との情報をいただき、河辺駿太郎選手を直撃。Jリーガーという夢を実現するまでの苦しい道のり、夢を果たしたこれからについてキニナリーニョしてきました。

3月8日の第4節・カマタマーレ讃岐戦で今季初の先発出場を果たした河辺選手は、樺山諒乃介選手からのパスを受けて、左足シュートで加入後初ゴールを挙げました。その河辺選手がJリーガーになるまでの苦労の始まりは2019年のことでした。

「大学卒業時の目標がJリーグに入ることでしたが、実際にはJクラブからのオファーはありませんでした。JFLチームの練習に参加させていただきましたが、最終的にはドイツ行きを決めました。その決断には二つの要素がありました」

「明治大の3つ上の先輩である小谷光毅(こたに・ひろき)さん(現・神奈川県社会人リーグ2部の鎌倉インターナショナル所属)が、大学卒業後に一度は就職しながらもう一度サッカーで挑戦したいという思いでドイツに渡り、地域リーグのチームでプレー。その後に逆輸入の形でいまの『いわてグルージャ盛岡』入りを果たしてJリーガーに。そこで、そういう道もあるんだな、と思っていたことが一つ」

「あとは直感です。ドイツに行けば何とかなるんじゃないか。本当に直感的な思いが生まれて、そこから2週間後にはドイツにいました。両親にはドイツ行きを決めてから伝えました。当たり前ですけど、2人ともビックリしていましたね」

河辺選手が最初にプレーしたのが、5部リーグに相当する地域リーグを戦うFVディーフレンというチーム。ドイツに渡ったばかりで言葉、環境、文化に慣れるのに時間を要し、試合に出られるようになったのは2018-19シーズンの終盤になってから。そして最終節のTSGプフェッダースハイム戦で良いプレーを見せたことをきっかけに2019-2020年シーズンをそのTSGプフェッダースハイムでプレーすることになるのです。

独学でドイツ語を学び、普通の会話が聞き取れるようになった河辺選手は日本食レストランのデリバリーというアルバイトをしながらプフェッダースハイムでプレー。そこでも良いプレーを見せて、次のシーズンは一つ上のカテゴリーである4部リーグに属するチームから移籍加入のオファーも受けていました。しかし、2020年2月に世界はコロナ禍に入ります。

「コロナによってプフェッダースハイムでの練習もなくなり、空港も閉鎖されると言う話が出てきた中で、一旦日本に帰ろうと、とりあえず実家の大分に帰りました。これをJクラブ入りに挑戦する良い機会かもしれないと考え、仲の良いJリーガーに代理人を紹介してもらっていろいろなチームに加入の可能性を当たってもらいましたが、どのJクラブもコロナ禍で練習参加の受け入れさえしていない状況でした」

「でも身体はつくっておこうと思って実家の近くの公園で一人ボールを蹴る日が続きました。もし練習参加が可能になった時のことを考えアルバイトもしました。デリバリー寿司店のバイク配達です。バイトが休みの日は公園で自主練。これが3月から8月くらいまで続きました」

「この時期、周りを見渡せば同年代の人たちの多くが就職して自立、結婚をする人もいました。そういうのを見て『俺は何をやっているんだろう』と。劣等感と焦りの中でJリーガーという夢を追うリミットを決めようと思いました。リミットは2020年12月。リミットを決めると不思議なことに、また自主練にも熱が入りました」

そういう時期を過ごしていた河辺選手は、現在、九州リーグを戦う『ジェイリースFC』、当時はまだ創設3年目で大分県リーグ1部を戦う社会人チームでプレーしていた友人に「練習だけでも参加させてもらえないか」とお願いしました。するとチームからOKをもらって、週2回の練習に参加することになります。

「それでも8月、9月とJクラブからの誘いはありませんでした。そのタイミングでジェイリース側から、『試合勘を戻すために一応チーム登録して試合に出たら』との提案をいただいてジェイリースに加入。それが10月のこと。11月にはJクラブから練習参加を認めてもらったのですが、契約には至りませんでした」

自分の中で決めた12月に入っても河辺選手は夢をあきらめたくなくて動きました。

「大学時代のコーチを頼りました。そのコーチが水戸ホーリーホックでプレーしていた時のチームメイトに、後に格闘家に転身した、その時はY.S.C.C.横浜に所属していた安彦考真さんがいて、まずは安彦さんを紹介してもらい、自分のプレー映像を安彦さんに送って『もし可能性があるなら監督に見せてもらえませんか』とお願いしました」

「当時のYS横浜の監督がシュタルフ悠紀リヒャルトさん(現SC相模原監督)です。ご存じのようにドイツ人の父親を持つ方で『面白い経歴だ』と僕に興味を持ってくれました。僕がドイツでプレーしていたのは5部リーグ。地域ごとにそのリーグは存在するので、ドイツ国内の5部リーグといっても、とても数が多いんです。それなのに、シュタルフさんが現役時代にプレーしていたのが僕と同じ地域の5部リーグだったんです」

「そういう縁もありPCR検査後に3日間の練習参加を認めていただきました。そしてオファーをもらい、無事にYS横浜入りとなりました。夢のJリーグ入りを果たした時に思いました。ドイツに行って良かった。直感にしたがって行動して良かったって」

ドイツから日本に帰ってきて公園でボールを蹴っている時期はかなりつらかったそうです。公園の近くのお宅のガラス窓を割ってしまい、バイト生活の身で決して安くはない修理代を支払った時もありました。

25歳になって就職もせず公園でボールを蹴る息子に何の小言を言うでもなく「お前ならJリーガーになれる」と懸命にサポートしてくれる両親に対して申し訳なく思う気持ちもあったようです。

「実際、あの時期が僕の人生におけるどん底。もうサッカーをやめようかなと思いましたが、そうしなかったのはJリーガーになりたいという夢があったからです」

「明治大の同期16人のうち8人がJリーガーになりました。そのうちの一人がギラヴァンツ北九州でもプレーしたGKの後藤大輝(現・FC岐阜)です。僕はその中に入れなかったという劣等感も持ちましたが、それも夢をあきらめずにもがくためのエネルギーになったと思います」

Jリーガーになるという夢を追う中で河辺選手は何を学んだのでしょうか。ご両親や友人、知人たちの優しいサポートを実感して人とのつながりの大切さを知ったことでしょう。そして河辺駿太郎というサッカープレーヤーとして今後も大事になるモノに気づかされたことは大きいと言います。

「大学を卒業してから計6つのチームでプレーさせていただきましたが、新しいチームに入るたびに意識したこと、それは最初にドイツで学んだことでもあります。『へんな日本人が来たな』という雰囲気の中で自分を認めさせるには、結果を残すしかない。アタッカーである自分にとっての一番の結果はゴールだということに気づきました」

「実際にドイツでも、また日本に帰って来てから、Jリーガーになってからも、ゴールを決め始めると新しいチームメイトから認められる。チーム内での立ち位置が上がっていくことを感じたのです」

練習を含めて、もちろん試合でも河辺選手の相手ゴールへ向かう姿勢、強引にでもシュートに持ち込むプレーにゴールへのどん欲さを感じます。

昨季中盤から所属した『いわてグルージャ盛岡』でも出場4試合目で初ゴールを挙げ、それによりチームメイトからの信頼も高まり、自らも好調を維持して4ゴールを挙げたのです。前節・讃岐戦での初ゴールによって勢いに乗れるはずだとの感覚を持っている河辺選手に今季の目標と今後の夢を聞きました。

「1ゴールを積み重ねて結果的に二けたゴールを挙げられたらいいな、と思っています。そうすることでギラヴァンツ北九州のJ3優勝とJ2昇格を果たしたい。個人的なさらなる夢は日本のトップリーグであるJ1でプレーすることです」

「いまJリーガーとしてプレーできていることに大きな幸福を感じています。それは苦しくてもあきらめずにチャレンジし続けた過去があるから。あのころに『やめたい』と思ったことを、これからも忘れずに、また夢を追い続けたいと思います」

[取材・構成:島田 徹]